果実いっぱいなオンコの木

やふー!しげちゃんです。
ほぼ月刊で不定期投稿な梅村庭園の話題なりー。

そんなわけで、梅村庭園では、あじさいが満開です。

あじさい

…えーっと、本州から来たばっかな感覚ですと、「いまごろかよっ!」と突っ込まずにはいられません。
6月後半に東京で開催された考古学協会に行ったとき、既にあじさいが咲き誇ってたんですよね…。ホントに本州から1ヶ月遅れぐらいで花咲いてますね…
 と、思いつつ、すでに最近涼しくなってきた気がするんですが、もう夏終わったとかそーゆーオチだったり…しませんよね?さすがにお盆までは夏ですよね?夜は下手すると寒いぐらいですが…先日はビ○ガーデンで飲んだときTシャツの上に七分丈ポロシャツ着て長袖パーカー着て丁度良かったぐらいだったんですけどが。別件では道新さんにおでんに熱燗の一団が居たとネタにされたりしましたねー…だって寒いんだもの
日向は暑くても、日陰入ると涼しい北海道の気候は、大好きです。

 

 んでタイトルな話題、オンコ(イチイ)の木に実が付いてます。

オンコの味

小さい赤い実がなるんですね。
これも食させていただきましたが、甘酸っぱいよーなちょっとサクランボに似てるよーな味がしました。種は苦いそーで。
先日来た、八雲町と交流している島根県八雲村(今は合併して松江市内)の児童達もちょいちょいつまんでいたそーで。

よろしくどうぞー

実をネタにしてるのに実のない話のまま〆

 

(投稿者:しげちゃん)

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木彫り熊いっぱいな八雲学

やふー!しげちゃんです。
明日は八雲学!ってことで、前回の八雲学の講義内容をチラッとご紹介。
興味が湧いた方は、明日からでも八雲学は参加できるとのことなので、公民館までお問い合わせをば。
※八雲学は公民館講座の一つで、全8回を予定してます。明日が第3回で、元酪農家の加藤孝光氏による「酪農国八雲の過去と現在と未来」というお話になります。八雲が北海道の酪農をリードしまくってた全盛期に、その中心的な人物だった加藤氏からお話を伺えるとても良い機会ですよ。

 では前回の三浦孝一氏による「『北海道といえば木彫り熊』を定着させたのは八雲?」の講義をサラッとご紹介…できるわけなく、かなーり堅いそして長い文章になりそうな予感が…

 まず、八雲の木彫りの発祥は、徳川義親公がスイスのベルンにて木彫りの民芸品を購入し、それ制作することを、農業ができない冬の間の副業として農民に広めたことに始まります。
 作品制作を奨励するために、スイスの民芸品を八雲に送ったのが1923(大正12)年、その翌年3月に、「農村美術品評会」を開催します。
この農村美術品評会は、家庭で作ったものを品評し、その場で売るという、即売会的な面も持っていました。
 この農村美術品評会は新聞でもてはやされ、遠くは愛知県から切り干し大根を送ってくるような状況でした。…食品が出品されていることからも推測できるように、当時、「農村美術」というものの実態はよく知られていなかったことと、どんな品物を品評するのか定めていなかったこともあって、「おらが村の特産品」的な勢いで多数の参加があり、その数1098点にのぼりました。
 台帳によれば、そのなかに、スイスの「木彫りの這い熊」をモデルとした、伊藤政雄氏が作った「木彫りの這い熊」が2点出品されていました。現在残っているものは1点のみですが、当時は2点あったようです。ともかく、これが北海道初の木彫り熊となります。その他に、木彫り作品では「スキー板」が多かったようです。
 その後、八雲独自の作品を義親公は模索していきます。
義親公自身は、木彫り熊をはじめとしたスイスの民芸品は、あくまで参考品であって、これらをヒントに八雲らしい民芸品を作ってほしかったようです。
 1926年3月に第3回農村美術品陳列会を東京での展覧会出品の予選とすることが話し合われたが、販売に適する作品がないとのことで、東京の展覧会は中止に。
 同年5月に、義親公が徳川農場の職員等に指示して、民芸品の参考とするため、世界各国・日本全国の土産品を集めて八雲に送ります。また、八雲では熊狩りに出かけた義親公が子熊を2頭捕まえてきて農場で飼育し始めます。のちに「雲八」「磯子」と名付けられ、木彫り熊の参考のために檻の中で飼われます。…その後も、捕獲された熊が追加されたり、小熊が生まれたりして数が増え、東京や名古屋の動物園に寄付してました。ついでに、檻の中で食っちゃ寝してるもんだから太っていって、それを参考にしている木彫り熊もふとましくなっていったというオチがあります。

 それはさておき、同年12月10日に、千葉県農会技師より木彫り熊購入の依頼が入ります。
 翌年の1927年、東京で開催された全国副業博覧会において伊藤政雄氏の木彫り熊が2等に入賞し、同年、北海道奥羽六県連合副業共進会にて1等賞を獲得します。
 義親公は木彫り熊を強烈に「推し」ていたわけではなかったようだが、社会としては、木彫り熊を求め、木彫り熊が八雲の独創的農民美術として評価されるに至りました。木彫りの中でも熊が推しメンじゃなかったんですね

講座風景
講座は木彫り熊展示室にて開催されました

 それまで優秀な人を集めて木彫りの講習会を行っていましたが、1928年には農民美術講習会を、講師は伊藤氏と日本画家の十倉氏で、材料は用意するし授業料は無料だけども昼飯は持参という条件で1週間行いました。
 そして、農民美術研究会を、会員による組合組織として独立させます。
これは、制作は会員が行い、材料の調達と販売を徳川農場が担当し、研究会は毎月の例会と隔月の共同制作を行うというシステムで、売れた作品は販売価格の7割が会員に、3割が徳川農場にはいるというシステムでした。
 また、農民美術研究会は木彫り熊部門と木彫工芸・織物などの部門に分かれていて、木彫り熊以外の作品も作っていました。しかし木彫工芸・織物部門については資料が残っておらず、よくわかっていません。ホームスパンを使っていたのは、ホームスパンが残っているのでわかるのですが…
 それはともかく、研究会で作った木彫り熊は徳川農場の販路=道内は当然ながら東京や大阪のデパートでも販売され、「北海道といえば木彫り熊、木彫り熊といえば八雲」「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫り熊」と1932年のアサヒグラフなどに紹介されるほどになりました。
 また、研究会の構成員も、農民が半分以上を占めており、義親公の目的であった農民の生活向上も果たしました。むしろ義親公は、木彫り熊を作ることを重視していたわけではなく、地域の経済が発展することを目的としており、その目的は達せられたと言えるのではないでしょうか。
 と、いったお話を聞いたあと、実際に木彫り熊展示室で実物を見学しながらいろいろな説明を聞きました。

よろしくどうぞー!

(投稿者:しげちゃん)

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方言の調査

 さる7月15日に国立国語研究所による「方言の形成過程解明のための全国方言調査」が、八雲町でも行われました。調査対象者の条件は、70代の八雲町生まれで、15歳までよそで生活していない人。また、16歳以降、よそでの生活が10年以内である人を一人紹介して欲しいという事で、条件を満たしている町内在住の某さんにお願いして、調査員が来町されての調査が行われました。
 後日、調査員より電話でお礼の言葉と共に、簡単な感想を頂きました。「今回の調査対象者が、標準語に非常に近い言葉で話されているのに驚きました」と言うことでした。また、八雲は尾張出身者が多いので、今でも名古屋弁を話される人がいるのでしょうかと言う質問を受けましたが、調査を行っていないので、明確な回答は出来ませんでした。
 参考に、出典は不明ですが手元にある「北海道に渡った名古屋弁」という雑誌記事を紹介します。記事の中に、郷土史を研究されている小泉武夫さん(79)とあることから、小泉さんの生年月日から逆算して、今から23年前の昭和63年頃に書かれた記事と推察されます。
 記事の内容は、八雲町にどの程度「名古屋弁」が伝承されているかというテーマで、尾張言葉を話すことができる(だろう)高齢者5人に集まってもらい、ざっくばらんに語り合ってもらうという企画でした。結果的にこの時は期待したほどの会話には至らなかったそうです。
 その当時で、既に移住者は三代目、四代目がおおく、純粋な尾張言葉を話せる人が減ってきたと書いてありました。片桐助作さんの孫に当たる片桐直利さん(82)の話によると、祖父や両親から聞かされた尾張の言葉で、「ごみゃーす」「おいでやーす」「いりゃーせんか」「おそがい」などの言葉を今でも覚えているそうです。
 また、自分より年上の人を呼ぶときには「○○さん」を「○○ソン」と言うそうです。ごく親しい間柄では、一人でも「○○シュウ」と言い「衆」の字をあてるそうで、「○○ちゃん」と同じ意味ではと推測しています。これらは尾張武士言葉の名残ではとも書かれていました。

方言調査の報告書
平成21年に出された報告書

投稿者:しんちゃん

 

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話題いっぱいな梅村庭園の夏

やふー!しげちゃんです。
今回は、夏の梅村庭園の話題です。

 最近、気温が上がったり下がったりで、風邪引きそうだなーと思ってます。基本的に20度前後なんで、愛知から来たばかりの私にとっては夏な感じはしないのですが…今日も長袖で出勤ですし…。

 と、そんな個人的感想はさておき、夏です。梅村庭園では、蓮の花が咲いています。
いけ 蓮

夏の間は水位が下がるので、鯉も写真撮りやすいですよー。

鯉
水面に写る植物と蓮と鯉。

また、公民館側にある標柱の横では
標柱遠景

イボタという花が咲いています。
イボタ

ついでに今年出たばかりの笹にも花が…すっごく短い期間なんですが、笹も花咲きます。花が咲くのも何十年かに1回と言われていて、咲くと凶作になるとか言われてました。そのあたりの調査に大学院にいたとき参加していましたが…それはまたの機会にでも。
笹
で、花が咲くと笹は枯れるんですが、これ、もう枯れるんでしょうか…?

 なかなか梅村庭園で夏っぽい写真を撮るのは難しいなぁと思う次第
太鼓橋から
夏っぽい…?
 もみじにずっと葉っぱついてるからか、もみじが写ると夏っぽく感じないんですよね(最初の蓮の花の遠景とか)。

 下の写真も、雀が近くにいたので撮ったのですが、秋っぽく感じる一枚に。
雀

で、梅村庭園には桜があります。実をつける桜もあります。
さくらんぼ
甘さはあまりありませんが、ちょっとすっぱめのさくらんぼの味がしました。

 それと、先日スターチスの寄贈があったそうで、当施設もいただきました。
それを、いつもお花の名前や季節の梅村庭園の見所を教えていただいている(今回もお世話になってます)管理人さんにお願いして…
スターチス
生けてもらいました。紫色の花がスターチスです。
梅雲亭のカウンターに飾ってありますよ。

 さて、先日、巣箱目安箱を郷土資料館と梅村庭園に設置しました。
めや巣箱
ご要望等を用紙に記入して入れていただけるとありがたいです。今後の運営の参考にさせていただきますので。

よろしくどうぞー。

 

(投稿者:しげちゃん)

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「遊楽部原野拓かる」

やふー、しげちゃんです。
明日は八雲学!ってことで、前回の八雲学の講義内容をチラッとご紹介。
興味が湧いた方は、明日からでも八雲学は参加できるとのことなので、公民館までお問い合わせをば。
※八雲学は公民館講座の一つで、全8回を予定してます。明日が第二回で、前八雲町郷土資料館館長の三浦孝一氏による木彫り熊についての講義になります。

 第一回目の八雲学は、古文書関係で大変お世話になっている幸村恒夫氏を講師に迎えての開催でした。
タイトルは、『遊楽部原野拓かる 旧尾張徳川家開拓による「八雲」の誕生』でした。

 八雲は明治11(1878)年に、旧尾張藩の士族達が15戸72名移住し、開拓を始めます。
その前年に、徳川家17代当主徳川慶勝公は北海道開拓地選定のために、吉田知行・角田弘業・片桐助作を派遣し、北海道各地を回って調査させます。ちなみに、調査団は吉田・角田の2名で、片桐は現地駐在員の特命を受けての来道でした。

調査
 その調査で、移住に適地としたのが遊楽部なのです。何よりの魅力は、200万坪を超える広大な土地でしたが、この選定が9月だからこその結果でした。
もし調査に入ったのが5~6月だったら、遊楽部を選ばなかった可能性もあります。5~6月は、八雲町民ならご存じの通り、「海霧(ジリ)」と呼ばれる霧が発生し、日照時間は少なく、寒い日が続きます。開拓をして稲作をしようと考えていましたが、この寒さは致命的で、結論から言えば八雲では改良されていない品種での結実は無理で、後年あきらめることになります。
 それはともかく、慶勝公は遊楽部を移住の地として定め、開拓使長官黒田清隆や岩倉具視らを巻き込んでの末、150万坪の土地の無代価払い下げを受けます。タダです。そのかわり、開拓使からの開拓移住民への資金援助を求めませんでした。お金は、徳川家が出します。元武士は、武士であることをやめるかわりに金禄公債(武士に対する退職金のようなもの)をもらっていて、尾張藩最後の藩主、慶勝公の場合、金利だけで莫大なお金がもらえてまして…そのお金を注ぎ込みます。これを管理していたのが第十一国立銀行(国立とあるけど私立です)…その後の東海銀行です。 それを聞いて、ちょいと驚きました。だって向こうでは普通に利用してたし、同じ市にはデータセンター的なビルあるわ、すごい身近な話なんですよ。あ、東海銀行は現在はU○J銀行です。○はSじゃないよ
 この遊楽部開拓の特徴は、北海道初の個人資本による団体移住開拓であったことです。徳川家がスポンサーとして、授産のために士族を集団で開拓に送り出します。遊楽部の地に作られた徳川農場では、七重勧業試験場からの支援を受け、当時の最新鋭の方法で開墾をし、移住を成功させます。この後、道の開拓政策も官費に依らない個人資本流入による移住開拓の促進へと舵を切っていきます。あの毛利家や鍋島家、前田家も徳川家による遊楽部開拓を手本として、北海道開拓に乗り出すことになります。

 

 では前置きはこのへんにして(これでも書き足りなかったりしますが)、本題。
八雲村は、明治14(1881)年に黒岩と遊楽部が合体して誕生するわけですが、「八雲」という名前はどこから出てきたのでしょうか。
「一週間のうち八日曇るから八雲」は違います、俗説です。
 最初の移民が入る前の明治11(1878)年8月、先発隊として移民を受け入れる準備をしていた吉田知行が書いた手紙に、「最初から村として成立したほうが良いと思いますが、名前はどうしましょう?」(大雑把な意訳)とあります。その中に出てくるのが「年魚市村」「愛知村」「名古屋村」です。愛知県の熱田台地(熱田神宮とかがある台地)のそばまで昔は干潟で、年魚市(あゆち)潟と呼ばれてました。愛知は年魚市に由来します。移民が入る前から村にする構想ははじまっていました。が、まだ書類に八雲と言う名前は出てきません。
 さて資料館にはなにげなく茶道具が展示してありますが、八雲では開拓当時からお茶を点てたり、歌を詠んだりしていた珍しいところです。
その歌の中に、「十たらす 二つ三つよつ こゝの野を 八雲の里と なしてける哉」と、明治12年2月にもう詠まれています。そして、村名がつけられるより前(明治12年6月)に、「八雲学校」と学校名に八雲とつけられています。
 これらの状況から、村名が定まる前から、八雲という名前が内輪では広まっていて、明治14年一村立とともに出願通りに村名「八雲」が決まったとみられます。
 この八雲はどこから取られたかというと、ご存じ、素戔嗚尊の古歌、「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その 八重垣を」から、慶勝公が選んだのでした。

 本当はもっと濃い内容を2時間に渡ってしていただいたのですが、書けば書くほど長くなってしまうので、ザックリと紹介させていただきました。
明日は木彫り熊の歴史ですが、これは19代の徳川義親公についても、濃い話が聞けると思います。

 

 ってこの記事書いてたら、モコさんが先に更新しているという…まあテーマは被っても内容被ってないからいいですよねってことでそのまま更新。同じ日に二人が更新するのもしんちゃんとやらかしたこともありましたし。つか今日を逃すともう更新できないんですよ、ネタ的に
よろしくどうぞー。

(投稿者:しげちゃん)

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