木彫り熊教本のこと

 木彫り熊展示室には、「八雲 木彫熊の作り方」という小冊子が置いてあります。これは、上村信光氏が公民館講座「木彫熊」で講座生に教えるためのテキストとして作られたものです。原本は謄写版で、経年のため読みづらくなっていることもあり、文字を活字化し図も鮮明にしましたが、原本が落丁していて、完全なものではありませんでした。先日、落丁部分がやっと見つかりましたので、完全な教本として一般公開する予定です。

木彫り熊教本

木彫り熊教本

 上村信光氏は、初代講師の茂木多喜治氏が亡くなった後、2代目講師として昭和52年~平成11年まで、講師を務めていました。
 教本には、木彫り熊講座の遵守事項というものが書かれてあり、“講座を始めたら終講まで続けること”“作品は失敗しても途中で棄てないこと”“木彫りの基本を先ず頭にいれること”“講習項目以外のことは、講習場所でしないこと”などと書かれていました。
 また、初めて木彫りを習う人の心構えとして、“木彫りの基本を確実に習得すること”“手本、教本に忠実であること”“一日一回は必ず、彫刻刀を手にすること”などとあり、上村氏の木彫りに対する真剣な態度を伺い知ることが出来ます。
 教本の内容は、彫刻刀の種類と名称、木彫り毛立ての技法、這い熊・吠え熊・マスクの作り方や着色・塗装・仕上げの方法など図入りで解説されていおり、これを読むと八雲の木彫り熊の技法が全て分かるような気になります。

教材

這い熊制作のための手本(上村氏作)

木彫り熊制作風景

「木彫熊」講座風景(昭和53年度町勢要覧より)

 生前、上村氏は良く郷土資料館に来られて、ロビーに展示してある茂木多喜治氏の大きな這い熊を熱心に観察され、「この作品は茂木先生の代表作ですよ。大型の作品なので毛彫りは粗い所もありますが、茂木先生の毛彫りの特徴が良く表れた大変良い作品ですよ」と言っておられました。

 

 

投稿者:しんちゃん

 
 

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一休さんって?

  アニメでおなじみ一休さんが、実在の人物だって知っていましたか?
 頓智で悪い大人を懲らしめる、小坊主という印象しかなかったのですが、今日まで名を残すと言うことは、何か理由があったからでしょう。今度、一休さんの書画を展示するので、ふと疑問が生じました。調べてみると、なんとアニメは江戸時代の「一休咄(ばなし)」などの小話集を基にした創作だったようですね。
 一休さんは、今から約600年前の室町時代の禅僧で、乱世の腐敗した宗教界の中で、権力におもねることもなく、常に庶民の味方として禅の教えを広め、多くの人々に愛されたそうです。戒律の厳しい禅宗にあって、酒を呑み、肉を食し、女性を愛したそうで、なんと76歳の時には、30歳代の盲目の美人旅芸人と亡くなる10年間も同棲し、臨終の言葉が「死にとうない」であったそうです。なんとも・・・。

一休宗純筆「梅画賛」

一休宗純筆「梅画賛」

「梅画賛」解説(PDFファイル

投稿者:しんちゃん

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飛び入り参加の根崎神社例大祭

やふー!しげちゃんです。
熊石地域の根崎神社で14~15日に行われていた例大祭、15日の宮入に飛び入り参加してきました。

根崎神社山車

 八雲町内で一番古い祭りはなんでしょうか?
答えは、熊石地域にある根崎神社の勧請(かんじょう)です。いつかというと、1606年(慶長11年)で、関ヶ原の戦い終わって江戸幕府が成立してすぐぐらいですね。
 勧請とは、分霊を他の神社に移して鎮祭することで、神様を祭る儀式のことです。勧請自体が祭りなので、神社の成立年代=最初の祭りが行われたという解釈ができます。例大祭はその後に行われていく祭りです。
 なので、八雲地域では1776年に作られた落部八幡宮となります。旧八雲村内なら八雲神社になります。
(出典「熊石町史」「社寺明細帳 明治44年改訂」「改訂八雲町史」「三訂八雲町史(仮)」)

 

 とまー、歴史ある熊石の根崎神社の例大祭。
雨が降ってきたということで、いろいろスケジュールをまいてやってたそうです。
私が現地に着いたときは、根崎神社の前で猿田彦が神社に帰ろうとしている場面でした。
猿田彦
右側が猿田彦。目の前に日本酒が奉納されてます。

 これは、猿田彦が帰ろうとするのを、人々がお酒を振る舞って引き留めるという儀式だそーです。

お酒では引き留めきれなくなって猿田彦が社殿の方へ消えると、今度は御神輿が鳥居をくぐって坂を駆け上がります。私も御神輿の担ぎ手に飛び込みで参加させていただきました。
御輿

勢いつけて坂を駆け上がるんですが、なかなか上がれず、何回も途中で引き返します。今年は5回目で社殿まで上がれました。

神社へ
鳥居から社殿への階段

その後、山車がやってきて、お酒と音楽を奉納していきます。拍手ー。

山車

そして今年の例大祭は終わり、なようです。
例年ですと、社殿の前でいろいろあったりするそうですが、今年は雨の影響でできず…。

社殿

来年晴れることを期待しつつ、また見に来たいと思います。

 そうそう、今年は泊川北山神社例大祭で、泊川奴(とまりかわやっこ)が登場し、道中降り奴などが奉納されたそうで、こちらもぜひ見に行きたいと思いました。来年はやるのでしょーか…。 

 と、これ書いているときに、いきなり自動ドアが開きました。
誰も来てないのに、です。そして吹き出す涼しい風(それまで風があまり部屋に入ってなかった)。
隣のしんちゃん曰く、「お盆だから。」だそーで。
あー、お盆に帰らなかったからこっち来たんかなーご先祖様。この時期混んでるし飛行機のチケット高いしでパスしたんですが…。9月には参りますんで。
よろしくどうぞー。

(投稿者:しげちゃん)

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セイウチの化石のこと

 郷土資料館には、セイウチの化石の一部が展示してあります。この化石は、1986(昭和61)年10月に上の湯地区で、町教委と今金町ピリカ海牛研究会(当時)の合同調査によって発見されました。
 出土層は新生代鮮新世の黒松内層下部(凝灰質シルト岩・砂岩)で、今からおよそ4~5百万年前のものと言われています。化石クリーニングが少し進んだ頃は、研究者によって、は虫類説、クジラ説、アシカ説など色々な説が唱えられましたが、ある程度クリーニングが進んだ段階で、セイウチ説が有力になっています。しかし、結論から言うと、、クリーニングが終わって各部位を調査しないとハッキリしたことが分からないと言うことです。
 当初、八雲自然文化研究会などで、タガネとハンマー、電動ドリルなどを使って化石クリーニングを実施してきましたが、母岩(化石を含んでいる岩石のこと)が小さくなり、化石の露出が多くなると、タガネなどを使うことによってどんどん化石が壊れるようになりました。鉱物に置換(遺体が鉱物などに置き換わること)された遺体化石が母岩より脆い場合のクリーニング方法として、母岩を薬品によって溶かして削るという方法があります。セイウチの化石の表面にパラフィンを塗り、化石に薬品が直接触れないようにしてから、約10%に稀薄した酢酸に化石全体を浸して、柔らかくなった母岩の表面だけにワイヤーブラシを使って数ミリ単位で削っていくという気の遠くなる様な作業を行いました。作業する人もいろいろ変わりましたが、何とか現在にいたっています。  
 化石は、地球とそこに住む生物がどの様に変化して行くかを研究する上で、大変貴重な資料と言うことで、今後もクリーニングを進めていきます。

セイウチの発掘風景
セイウチの化石発掘風景(昭和61年)

 

セイウチの化石
クリーニングが進んだセイウチの化石(表面にパラフィンが塗ってある状態)

 長谷さんご苦労様でした。

 

投稿者:しんちゃん

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遊楽部川の自然 旅鳥として渡来するシギ類

遊楽部川の自然 旅鳥として渡来するシギ類
 

 11日の大雨で、遊楽部川下流域の水位は一時4メートルを超えましたが、大事に至らず平常水位に戻りつつあるようで一安心です。これも堤防のおかげでしょうか。

 19世紀中頃、幾度か遊楽部川を渡った松浦武四郎は「幅凡そ50間とも云り、然し沿革すること夥(おびただ)しい。この時は番屋より8・9丁も北へ至りて渡りしより翌の丙牛の秋は番屋の西の方小休所の下にて渡りたり。以前とは大に深くなりて漸(ようやく)緩くなりたり。」と、出水の度に遊楽部川下流域が変化することを述べています。

 このように変化する遊楽部川、四季によって色々な鳥がやってきます。来訪者に自然や歴史を説明する機会がある私にとって、川に来る野鳥のデータ集めは欠かせません。
 休みの日に時間があれば運動を兼ねて、遊楽部流域で草原の中に座り込み、野鳥観察をしています。勿論これはデーター集めです。

セイタカシギの写真

セイタカシギ 旅鳥として渡来すると言われ、「北海道の野鳥」(北海道新聞社発行)には、北海道では非常に珍しいと記載されてる。

ホウロクシギの写真

ホウロクシギ 日本で観察されるシギの仲間では大きい。旅鳥として海岸などにくるとされる。「北海道の野鳥」には数は少ないと記載されている。

(投稿者 ジョー門)

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