砂金掘り体験

 伝統技術を学ぶと言うことで、今金町で砂金掘り体験をしました。砂金掘りの歴史などの説明を受けた後に、昔の砂金掘りの道具であるカッチャ・揺板(ゆりいた)・ねこ・洗い笊(ざる)などと呼ばれている道具を見学しました。現在、今金町には砂金掘りを生活の糧にしている人はいないそうですが、昔は半農・半砂金掘りと言う人たちがいたそうで、地域によっては今でも家に砂金掘りの道具が揃っているところがあるそうです。
 美利河地区で、今でも砂金採掘跡が残っている場所を見学した後に、「熊出没注意」の看板がすぐ横にある河川で、砂金掘りを体験しました。ゴールドパンと呼ばれる容器に河床から掘った砂礫を入れてもらい、流水で砂礫や砂鉄を流すと、容器の底からまばゆい砂金が現れます。2時間くらいやって最大径2mm位の砂金1個見つけることが出来ました。
 砂金掘りは個人的に行う場合は自己責任で良いと言うことですが、一攫千金をもくろんで大々的に行う場合は、環境破壊につながりますので、砂鉱区申請を行う必要があるそうです。
 八雲でも、鉛川鉱山から金・銀・銅などが採掘されたという記録がありますから、砂金が出る可能性は充分あると思います。

美利河地区の砂金採掘跡

美利河地区の砂金採掘跡(砂金を掘るために石を取り除き石垣状に積み上げた状態)

砂金掘り1 砂金掘り2

 ゴールドパンを水平に揺すって砂金を底に沈める

 砂礫や砂鉄を流水で流している状況

 砂金掘り3  砂金掘り4

 容器の底に残った砂金を探している

 砂金採集風景

 砂金を見てしまうと、ついつい夢中になってしまいました。

投稿者:しんちゃん

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「雪中行軍始末」

 明治35年に、八甲田山雪中行軍遭難救助に参加した、アイヌ捜索隊を中心に描かれた小説で、辨開凧次郎たちの捜索の様子が生き生きと描かれています。筆者の小田原金一は、青森県幸畑村に生まれ、祖父は捜索隊の嚮導(きょうどう:地元の山の地形を知り尽くした案内人)として、捜索にあたっていました。当時は幸畑村や田茂木野村のどの家でも、一家を上げて捜索に関わっていたそうで、筆者の幼少時には周りに雪中行軍遭難の捜索に実際にあたった人たちがいて、小さい頃からの関心事の一つであったそうです。筆者は、この小説を書き上げるために、歩兵第五聯隊編『遭難始末』や「東奥日報」の新聞記事などを参考に、関係者への聞き取りなどを基にして、事実と虚構の交えた小説として書き上げたと思います。
 小説の中では、辨開たちは必ずしも捜索に進んで加わった訳ではなく、むしろ初めは拒否していたそうです。そこには和人への不信感があったそうで、実際に捜索に臨んでからは、決して和人に負けたくないという意地の様なものがあり、アイヌ犬を駆使しての捜索は、地元案内人も舌を巻く活躍であったそうです。
 八甲田山雪中行軍遭難に関する著書は多くありますが、辨開たちを中心に描いた小説は外にないと思いますので、興味のある方は図書館にありますので、ぜひ読んでみてはどうでしょう。

雪中行軍始末
雪中行軍始末

投稿者:しんちゃん

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「渡島半島のアイヌ民族資料」展

 八雲地域のアイヌ民族資料の展示が、函館市北方民族資料館(函館市末広町21-7)の収蔵資料・企画展として、11月13日(日)まで開催されています。展示品は、市立函館博物館、北海道大学植物園 博物館、八雲産業株式会社、八雲町郷土資料館、旧相馬邸などが所蔵している資料です。展示品の中には、函館博物館「馬場コレクション」の名で知られている資料も含まれています。「馬場コレクション」とは、函館出身の馬場脩氏が収集した北方民族資料で、特にアイヌ民族資料は、世界的に学術価値が高い資料で「アイヌの生活用具コレクション」として、国の重要有形文化財に指定されています。

「渡島半島のアイヌ民族資料」展ポスター

ポスター

投稿者:しんちゃん

 

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古文書講座と公開講座

やふー!しげちゃんです。
今回は、熊石で行われた古文書講座と週末の徳川林政史研究所公開講座についての更新です。

 10月14日の日曜日、10時から12時にかけて古文書講座が熊石総合支所2階会議室にて行われました。

古文書講座風景

 明治期の古文書と、江戸期の古文書がリンクした熊石地域の歴史について講義していただきました。
また今回は、「初めての古文書」というテーマでして、基本的に教材とするのは明治期の読みやすい文書でした。が、内容はとても濃かったです。
 熊石地域で古文書講座を行うのは初めてで、どんな感じになるのかよくわかりませんでしたが、蓋を開けてみれば16名参加で、内容にもかなり満足して受講していただけたようです。
来年も開催して欲しいというアンケート結果を受け取りましたので、講師の幸村先生と打ち合わせしまして、来年度も開催したいと思っています。
 ちなみにこの古文書講座、内容はあまり変えずに、八雲地域でも3月に行う予定(大体例年通りの日程の予定)でおりますので、今回興味あったけれども参加できなかった方はそちらによろしくどーぞ。

 

 さて、今週土曜日20日、はぴあ八雲にて13時から徳川林政史研究所の公開講座が開催されます。
テーマは「徳川義親 八雲への想い」です。
 この「徳川さん」と八雲の関係は並々ならぬものがありまして、ものすごく八雲のことを気にかけてくださっています。
木彫り熊も、欧州旅行中にスイスの木彫りの民芸品を見て、八雲のことを想って購入してきたのが発祥のきっかけです。
また大正年間は、第一次世界大戦による好景気から一転、大不況及び関東大震災が起こって非常に混乱していた時代でもあります。
…なんだか、現代にダブって見えるのは気のせいでしょうか?
ひょっとしたら、この「徳川さん」を学ぶことで、なんらかのヒントが得られるかもしれません。
ってなわけで、当日のご参加をお待ちしております。
よろしくどうぞー。

(投稿者:しげちゃん)

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山越の臭水油

 先日、東京より研究者が訪れ、山越の臭水油”くそうずゆ”の現地調査を行いました。臭水油或いは臭水”くそうず”とは、石油の古名だそうです。原油が臭うことから”くさみず”の音が変化して”くそうず”となったそうです。
 松浦武四郎の『東蝦夷日誌』には、山越内で臭水油が湧いているのを池田伊右衛門が発見し、皮膚の感染症である疥癬(かいせん)の膏薬(こうやく)を作って売っていたという記述があります。また、鳥もち(鳥や昆虫を捕まえるための粘着物)の代用品としたという言い伝えもあります。
 明治2年に終結した函館戦争の首謀者であった榎本武揚は投獄されますが、黒田清隆の尽力により明治5年に出獄します。その後、人材を必要とした明治政府によって開拓使四等出仕に任命され、北海道の石油・砂鉄・石炭の調査にあたることとなり、山越の石油の調査も行ったとのことです。
 円融寺の駐車場横にある、コンクリートで囲われた溜池では、生ぬるい水が湧き出て、水面には油膜が確認されました。近所の人の話では、以前、円融寺裏手では天然ガスが噴出し、燃料として使っていたという話を聞きました。山越郵便局の少し南側の国道沿いには、昭和3年頃に佐藤温泉という冷泉の出る旅館があり、昭和15年頃まで営業していたそうです。現地を歩いて、山越地区は地下資源の宝庫という感じがしました。

円融寺駐車場横の溜池 国道5号沿いにある溜池

 円融寺の駐車場横の溜池

 国道5号沿いの溜池

側溝より湧き出る石油 佐藤温泉跡と思われる溜池

 側溝より湧き出る石油を含んだ水

 佐藤温泉跡~の溜池(白く沈んだものは湯華とのこと)

投稿者:しんちゃん

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