謹賀新年

あけましておめでとうございます。
しげちゃんです。
まさかのこのタイミングでの更新です。ええ、ネタがあったら基本的に走るんです

 

新年一発目のエントリは、やはり初詣でしょう。
先ほど、八雲神社に参拝してきました。
2年参りしようと思ったら、家でゆっくりしすぎたのと意外と歩くのに時間かかってしまって神社に着いたときにはもう0時を回ってしまっていましたが…

新年の八雲神社

着いたときにはまだ行列ができていました。雪が降っているにもかかわらず…って、雪が降るのはこの辺だと当たり前なんですよね。
かなり重装備したつもりだったのですが、外は寒い。
家の中にいるとそんなに寒さ感じないのですが…
やっぱり北海道ですねぇ。

今年もよろしくどうぞー。

(投稿者:しげちゃん)

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あなたは知っているかっ

パッケージには一言も八雲町と書かれていないが、実は八雲の酪農家達による牛乳が売られているということを!

やふー!しげちゃんです。
そんなわけで、今回は八雲町の牧場で搾られた牛乳について書きたいと思います。

北海道近代酪農発祥の地、八雲。
 明治11(1878)年に八雲に移住してきた旧尾張藩士族の人々は、入植してすぐに牛馬を使った耕作をして米作・畑作を行っていきます。米は寒冷すぎて実りませんでしたが、畑作は地下茎のものが気候や土地と相性が良く、主に馬鈴薯を作っていきます。
牛馬については牧場を作って数を増やすとともに、牛乳や加工品、肉を販売しようとしますが、まだその需要は少なく、明治28(1895)年の大雪で飼料がなくなり牛を大量に餓死させたこともあって、牛乳の生産は明治30(1897)年頃には下火になります。しかしなくなったわけではなく、一部の農場ではバターなどを製造していました。
 もともと馬鈴薯の栽培と澱粉の製造は行われていたのですが、水車を動力として効率よく製造できる川口式澱粉製造法が明治31(1898)年頃に完成すると、一気にいも畑が広がり、澱粉生産がさらに盛んになります。しかし、大正7(1918)年に第一次世界大戦が終了すると、澱粉価格が大暴落し、八雲農民の生活は苦しくなります。

 略奪農法的な馬鈴薯の生産で土地が痩せ細った八雲では、痩せた土地でも生える牧草と、それをエサとする牛を飼って、牛糞を肥料として畑作を行う循環農法が良い。また畑作は収入は1年に1回だが、牛なら牛乳を売れば1ヶ月に1回とか短いスパンで収入が見込める。ということで、大正9(1920)年に畜牛組合を組織して、全農家に牛を行き渡らせようとします。この事業を徳川義親公から信頼を得て強力に推進したのが、時の徳川農場長の大島鍛氏、その下で具体的に動き回ったのが太田正治氏、そしてスポンサーとして梅村多十郎氏がいました。こうして201頭の乳牛数から有畜農法がはじまり、酪農へと発展していきます。
 泰西(ヨーロッパ)に学んだ、牛と農業を組み合わせた有畜農法を始めて、「皆、八雲に学べ」と言われ様々なところから視察がやってきていたことから、八雲が【北海道近代酪農発祥の地】と呼ばれることになります。

 と、いった内容は、今年公民館講座で開講されていた『八雲を知ろう!八雲学』で、太田正治氏とともに酪農の発展に尽力された加藤孝光氏が自身の体験を交えてお話してくださいました。膨大な内容を教えていただいたので、また機会を改めて「天・地・人」などについて書いてみたいと思っています。

さて、今回このエントリを書こうと思ったのは、某顔本的SNSで愛知県春日井市のMさんが、あっちで流通している八雲町発の牛乳の写真をアップロードしてくださったことでした。

八雲の牛乳中部
愛知で販売している八雲発の牛乳

掲載許可を快くしてくださり、ありがとうございます。

で、八雲町の牛乳が使われた牛乳はいくつかあるのですが、サクッと手に入ったものをご紹介ー。

一つは、「北海道八雲町特選牛乳」です。

八雲の牛乳

こちらは、八雲町が全面に出ているパッケージ。

八雲の牛乳

これは愛知県内でも販売しています。住んでたときにたまに食卓にのぼっていた記憶があります。ウチ朝はパン派なので。
ア○タ系列だったと思うので、全国的に出回ってるんでしょうか。

もう一つは、「緑と牛と大地」です。

緑と牛と大地

こちらはどこにも八雲町の名前はでてきません。

緑と牛と大地

んが、「北海道で最も古い酪農の歴史をもつ函館近郊の自然豊かな牧場」と書かれており、これが八雲町のことを指しているのです!いやマジで。
 なぜなら、ここにあげられている酪農家さん達は全員八雲の方々ですので、中身は八雲で育った牛の乳onlyなんです!まったく知りませんでした。
 なおこの製品、さまざまな努力が認められて、平成23年度のコープさっぽろ農業賞を受賞しています。

どちらもオススメですので、ぜひ飲んでみてください。
まだ他にも八雲の牛乳が使われた牛乳があるそうなので、手に入れたらご紹介したいと思います。情報お待ちしております。

というわけで、八雲のはじまりから今に伝わる歴史的エントリでした。

実は緑と牛の大地の写真の賞味期限からわかるとおり、夏から温め続けていたネタだったりするんですよね、コレ。(苦笑)

(投稿者:しげちゃん)

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森田たまの交友録

 現在、北海道立文学館にて「森田たまの交友録ー書簡にみる文学者たちの筆跡」展(H23.11.19~H24.1.15)が開催されています。森田たまと交友のあった川端康成、草野心平、棟方志功、中谷宇吉郎などがたまに宛てた書簡、たまの筆によるスケッチ、愛用品や著書などが展示されています。
 森田たまは明治27年に札幌に生まれ、後に『もめん随筆』や『きもの随筆』など多くの著書を著し、現代の清少納言と称された女流文学者です。大正7年5月から翌年の1月まで八雲に滞在していました。随筆家として本格的に活躍する以前の時期で、その間に書かれた著作はありませんが、後に発表された『婦女読本』(昭和18年)、『待つ』(昭和34年)、『随筆 をんなの旅』(昭和42年)などの中に、八雲滞在時のことが書かれています。
 八雲に滞在した理由については、書かれた文章によって多少の違いがありますが、大正3年に自殺未遂をして、その事が小説に書かれたり噂になったりしたので、父親が北見のハッカ畑と八雲のじゃがいも畑を交換して、八雲駅近くにあった連絡所に留守番がいない事もあり、人目を避けて滞在することになったらしいです。
 『待つ』の中の「三匹の馬」という八雲滞在時の事が書かれた文章がパネルとして展示されており、噴火湾は魚貝類が豊富で、毛がに、生うに、ホッキ貝、帆立貝、小烏賊がたくさん捕れ、鯖は煮ても焼いても〆鯖にして毎日食べても飽きないほど美味しいと書かれていました。

「森田たまの交友録」展パンフレット

森田たまの交友録展のパンフレット

 

投稿者:しんちゃん

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八雲と関係のあるスポット巡り

やふー!しげちゃんです。
先日、所用でちゃちゃっと愛知戻ってちょいっと三重県は松阪市とご存じ小牧市へ行ってきたので、そのお話です。

まずは三重県松阪市。
ここの出身者(松阪市の中でも旧三雲町内)に、とても北海道と縁の深い人がいることをご存じでしょうか?
 幕末にアイヌ民族の協力のもと北海道を探索し、明治維新後は政府に登用されて、「北海道」の基となった「北加伊道」の改称案をあげるとともに、支庁や郡名もアイヌ民族の地名を基にした案を出した『北海道の名付け親』と呼ばれる人物、松浦武四郎。
探検家であり、作家であり、出版者であり、学者であり、収集家である多才な武四郎。
その松浦武四郎記念館へ行ってきました。
 そこでは「松浦武四郎の記念碑」という地図が配られているのですが、そこに八雲町も載っています。
実は由追(ゆい)稲荷神社が武四郎と関係が深く、神社には説明板を設置しています。

由追稲荷神社
由追稲荷神社

武四郎は、蝦夷地調査に赴く折々にこの社に詣で、捧げものをして道中の安全を祈っていました。
「天地の神も知りませ国の為千島の奥に思ひ入る身を」(『東蝦夷日誌』)
と、詠じています。
 この由追稲荷神社ですが、山越駅から国道5号(大沼国道)を函館方向(東)に向かうとあります。昭和40年に国道5号が山側に路線変更されたとき、神社の位置はそのままで、山側に拝殿の向きを変えたという経緯があります。
この神社については現在大校正中の三訂八雲町史に掲載されていますので、発刊をお楽しみに!あと三ヶ月ちょっとか(遠い目

 なお松浦武四郎記念館では現在、「AINU ART 風のかたりべ」という特別展が開催されています。来年2月2日からは北海道立近代美術館でも開催されます。

次に愛知県小牧市。
 愛知に住んでいたとき、ボーイスカウト関係で何度か小牧山にある青年の家に泊まったことがあり、馴染みあるのですが、ついぞ小牧山山頂に登ったことはなかったので行ってきました。
 小牧山の山頂には小牧城とも呼ばれる「小牧市歴史館」が建っています。これは織田信長が建てた城を復元したものではなく、豊臣秀吉が京都に建てた聚楽第の姿を伝えるとされる西本願寺飛雲閣をモデルに昭和43(1968)年に建てられました。建てたのは名古屋市在住の実業家、平松茂氏で、完成後市に寄贈されました。

なお、信長時代に小牧山にあった建造物は不明なのですが、以前から山頂付近を発掘調査していて、全国的にも珍しい初期石垣が発見されています。

石垣の石

発掘調査で掘り出された石垣の石と裏込め石。

調査終了して戻すまで屋外展示しているそうです。
その調査の様子を撮影した映像や資料を歴史館の中で見ることができます。以前城跡の調査に関わったことがあったので、なかなか興味深く拝見させていただきました。そういえば小牧城は先日、NHKでも特集されてましたね。
 その小牧市歴史館の前には、徳川義親公の銅像が立っています。

小牧城

すっごく秋っぽい一枚なんですが、これ撮ってから歴史館見学していたら雪が降ってくるとゆーね。
まさか降られるとは思いませんでした。なんでも愛知で12月上旬に雪積もるのは1996年ぶりとか…。
まだスタッドレスに履き替えてなかったので、ちょいとばかり八雲より運転するの怖かったです。バッキバキに凍ってる感じなかったのでまだよかったんですけども。
…そういえば雪の上だと、停まったまんまでハンドル切っても全然抵抗ないんですね。ツルッツル!いや雪がほとんど無いとこで生活してたらこんなもんですて。歩くのも怖いぐらいですし。ですので事故らないようにかなり注意して運転してます。

そんな感じの一時帰郷でした。次回は徳川園に行きたいなぁとか思いつつ。
よろしくどうぞー。

(投稿者:しげちゃん)

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埋蔵金と金の櫛

 八雲町にも埋蔵金伝説があります。この話は、ある程度有名な話です。明治元年に榎本武揚率いる徳川脱走軍が蝦夷地を平定しますが、翌年には新政府軍に攻めこまれ、五稜郭から敗走することになります。その徳川脱走軍が、鉛川鉱山に攻めて来るのではという噂が立ち、鉱山の責任者がアイヌの親子に頼み、雄鉾岳の麓に埋蔵金を埋めて桐の木を植えたという伝説です。その埋蔵金ですが、金銀塊20個であったり、50個であったり本によって違いますが、桐の木を植えたというのは共通しています。
 また、鉱山の若い奥さんが畑を耕していて、金塊が出てきて大騒ぎになったと言う、ピリカベツ駅逓をやっていた高見米太郎さんの話も紹介されていますが、違う本には金塊ではなく金の粉と書いているものもあります。
 閉山した鉱山共同浴槽の男湯タイルの底から、時価数億円もする金の櫛が発見されたという話も紹介されていますが、金の櫛とされているものは現在郷土資料館展示室に、ひっそりと飾られています。
 ※ちなみに金の櫛と言われているものは、金ではありません。
 「日本の埋蔵金」研究所のホームページに八雲の埋蔵金の話が紹介されています。

金の櫛
「金の櫛」とされているもの

投稿者:しんちゃん

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