パッケージには一言も八雲町と書かれていないが、実は八雲の酪農家達による牛乳が売られているということを!
やふー!しげちゃんです。
そんなわけで、今回は八雲町の牧場で搾られた牛乳について書きたいと思います。
北海道近代酪農発祥の地、八雲。
明治11(1878)年に八雲に移住してきた旧尾張藩士族の人々は、入植してすぐに牛馬を使った耕作をして米作・畑作を行っていきます。米は寒冷すぎて実りませんでしたが、畑作は地下茎のものが気候や土地と相性が良く、主に馬鈴薯を作っていきます。
牛馬については牧場を作って数を増やすとともに、牛乳や加工品、肉を販売しようとしますが、まだその需要は少なく、明治28(1895)年の大雪で飼料がなくなり牛を大量に餓死させたこともあって、牛乳の生産は明治30(1897)年頃には下火になります。しかしなくなったわけではなく、一部の農場ではバターなどを製造していました。
もともと馬鈴薯の栽培と澱粉の製造は行われていたのですが、水車を動力として効率よく製造できる川口式澱粉製造法が明治31(1898)年頃に完成すると、一気にいも畑が広がり、澱粉生産がさらに盛んになります。しかし、大正7(1918)年に第一次世界大戦が終了すると、澱粉価格が大暴落し、八雲農民の生活は苦しくなります。
略奪農法的な馬鈴薯の生産で土地が痩せ細った八雲では、痩せた土地でも生える牧草と、それをエサとする牛を飼って、牛糞を肥料として畑作を行う循環農法が良い。また畑作は収入は1年に1回だが、牛なら牛乳を売れば1ヶ月に1回とか短いスパンで収入が見込める。ということで、大正9(1920)年に畜牛組合を組織して、全農家に牛を行き渡らせようとします。この事業を徳川義親公から信頼を得て強力に推進したのが、時の徳川農場長の大島鍛氏、その下で具体的に動き回ったのが太田正治氏、そしてスポンサーとして梅村多十郎氏がいました。こうして201頭の乳牛数から有畜農法がはじまり、酪農へと発展していきます。
泰西(ヨーロッパ)に学んだ、牛と農業を組み合わせた有畜農法を始めて、「皆、八雲に学べ」と言われ様々なところから視察がやってきていたことから、八雲が【北海道近代酪農発祥の地】と呼ばれることになります。
と、いった内容は、今年公民館講座で開講されていた『八雲を知ろう!八雲学』で、太田正治氏とともに酪農の発展に尽力された加藤孝光氏が自身の体験を交えてお話してくださいました。膨大な内容を教えていただいたので、また機会を改めて「天・地・人」などについて書いてみたいと思っています。
さて、今回このエントリを書こうと思ったのは、某顔本的SNSで愛知県春日井市のMさんが、あっちで流通している八雲町発の牛乳の写真をアップロードしてくださったことでした。
愛知で販売している八雲発の牛乳
掲載許可を快くしてくださり、ありがとうございます。
で、八雲町の牛乳が使われた牛乳はいくつかあるのですが、サクッと手に入ったものをご紹介ー。
一つは、「北海道八雲町特選牛乳」です。
こちらは、八雲町が全面に出ているパッケージ。
これは愛知県内でも販売しています。住んでたときにたまに食卓にのぼっていた記憶があります。ウチ朝はパン派なので。
ア○タ系列だったと思うので、全国的に出回ってるんでしょうか。
もう一つは、「緑と牛と大地」です。
こちらはどこにも八雲町の名前はでてきません。
んが、「北海道で最も古い酪農の歴史をもつ函館近郊の自然豊かな牧場」と書かれており、これが八雲町のことを指しているのです!いやマジで。
なぜなら、ここにあげられている酪農家さん達は全員八雲の方々ですので、中身は八雲で育った牛の乳onlyなんです!まったく知りませんでした。
なおこの製品、さまざまな努力が認められて、平成23年度のコープさっぽろ農業賞を受賞しています。
どちらもオススメですので、ぜひ飲んでみてください。
まだ他にも八雲の牛乳が使われた牛乳があるそうなので、手に入れたらご紹介したいと思います。情報お待ちしております。
というわけで、八雲のはじまりから今に伝わる歴史的エントリでした。
…実は緑と牛の大地の写真の賞味期限からわかるとおり、夏から温め続けていたネタだったりするんですよね、コレ。(苦笑)
(投稿者:しげちゃん)