故郷からの来訪者とでんぷん製造のお話

やふー!しげちゃんです。
今回は、私の故郷からの来館者についてご紹介します。

 と、思って、小牧のことを思い浮かべた方々、ごめんなさい。
今回は小牧市民ネットワークの皆さまのことではなく、先週訪れて下さった豊橋在住のご夫婦です。
豊橋は三河だから尾張じゃないだろってツッコミはさておきでお願いします。

 さてこのご夫婦、奥さんのご先祖様が八雲に住んでいたそうで、所縁の地を訪ねているとのこと。
なんとこの奥さん、以前は私の出身地の北名古屋市にも住んでいたこともあるとのことで、驚きました。
まさかこんなに早く北名古屋市に縁のある人と八雲で出会うとは…
 そんなご夫妻から、ご自宅にあったという『神谷澱粉製造工場』(屋号は「大」の下に「カ」を組み合わせたもの)の写真をいただきました。

(掲載している写真は、色を調節して見やすくしてあります)

 

神谷澱粉製造工場内

神谷澱粉製造工場内の写真

 八雲でのでんぷん製造の特筆点は、道内で初めて工場をオートメーション化したことにあります。
この川口式でんぷん製造器は、動力をすべて水車にし、生産量は約2倍に増やし、加工の所要経費は約3分の1に抑えることに成功しました。このシステムは特許を取得しなかったこともあって、道内にどんどん広がっていきました。そこで八雲は組合を作って、製品の検査を行うとともに品質の向上に努め、八雲片栗粉というブランド名で、雪・月・花の等級をつけて販売していました。
明治末には東京市場で全国1位の高値で取引されるほどでした。

 

神谷澱粉製造工場遠景

神谷澱粉製造工場遠景

 また、現在ではあまり作られなくなったジャガイモのでんぷんですが、第一次世界大戦の時期には大量に作られ、でんぷん成金と呼ばれる人たちもいるぐらいでした。とても売れた理由は、戦争が起こっていたため自国での生産ができないヨーロッパの国々が、日本のでんぷんを購入しまくったため、価格も高騰していました。
 しかし第一次世界大戦の終了とともにヨーロッパのでんぷんが市場に出回るようになると価格が暴落し、多くの工場は閉鎖に追い込まれていきます。
 その後、八雲は陸の基幹産業を酪農へと転換させることになります。

 今回いただいた資料の工場は、ペンケルペシペ(鉛川)のあたりにあった工場だそうで、資料館にはそれ関係の資料はほとんどないようです。
北海道の澱粉工場についてまとめた本(参考文献)に当時の工場経営者一覧が載っているのですが、そこには工場の名前はなく、工場の位置も大まかにしかわかっていません。
もしなにか心当たりのある方は、情報をお寄せ下さい。

よろしくどうぞー。

参考文献 北海道廳内務部(1917)『馬鈴薯澱粉ニ關スル調査』

 

(投稿者:しげちゃん)


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