田上義也は、旧帝国ホテルを建築したフランク・ロイド・ライトに師事し、ホテル完成後にはライトの助言や下宿先で知り合った有島武郎の影響もあり、北海道に渡ることになりました。大正12年上野駅から青森行きの汽車に乗り込むと、偶然にも向かいのシートにジョン・バチュラーが座っており、北海道に知り合いのいない田上は、札幌のバチュラー邸に居候することになります。その縁で、後にバチュラー学園を建築するのが、北海道での初めての仕事となりました。ちなみに、バチュラー学園後援会会長が新渡戸稲造で、顧問には徳川義親と渋沢栄一が就任しています。
昭和18年には、帝国産金興業株式会社の社長から、落部村に帝産航空というベニヤ単板製作工場の設計と取締役工場長を依頼されます。当時、日本では飛行機の材料となるジュラルミンが欠乏し、木製飛行機を作らざるを得ない状況にあり、材料となるベニヤ単板の製作に迫られていました。その頃、妻の実家がある野田生には、東京から疎開していた伊藤整がおり、企画課長として終戦まで勤務することとなります。戦時中アメリカのグラマン機によって、工場の屋根は無数の弾痕で破られ、終戦後には進駐軍が工場にやってきた時には、日本青年団の木銃が十数本発見されました。ニューヨークタイムスの記者であった士官は、木銃のことより日本の歴史、神と天皇はどちらが偉いのか、宗教はいくつあるのかなどの難問を連発し、田上のスラングな会話と伊藤整のレギュラーな英語をミックスして、冷や汗をかきながら答えたと言うエピソードがあります。
田上は、北海道に多くの建築作品を残しており、八雲町内では八雲町役場庁舎(昭和38年落成)と八雲町公民館(昭和40年落成)の設計を手がけています。
田上義也に関する本
投稿者:しんちゃん