尾張徳川家と八雲アイヌの交友
八雲町のアイヌの歴史で特筆すべきは、明治時代に遊楽部川下流域へ旧家臣団を移住させ、農場を経営した尾張徳川家とアイヌとの友好的な関わりです。
特に第19代当主で、徳川農場主の徳川義親(よしちか)は、大正7(1918)年からアイヌとともに熊狩りをしたことで知られ、「熊狩の殿様」という愛称で呼ばれました。
熊が獲れれば農場でアイヌとともに熊送りの儀礼も行い、ユーラップアイヌが作成したチカラカラペを着て参加しました。
義親が八雲町のユーラップアイヌと落部アイヌとともに冬山で熊狩りを行った様子は、当時、新聞等で報じられました。
さらに義親はこの熊狩りについて、『動物学雑誌』への投稿や、『熊狩の旅』という本の刊行を行い、アイヌ文化を紹介しました。
他にもジョン・バチェラーのアイヌ語辞典の刊行を支援し、東京の松坂屋ではアイヌ支援のためのバザーを開催する等、義親と八雲のアイヌを、不在地主とその土地周辺のアイヌという関係で捉えた場合、他の地域とは違う友好的な関係を築いていました。
徳川義親とアイヌの熊狩
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徳川義親に熊狩りを案内したのは、熊狩りの大ベテランである数人のアイヌです。
イコトルや椎久年蔵(しいくとしぞう・トイタレキ)、辨開凧次郎(べんかいたこじろう・イカシパ)とその息子(勇吉と勇)らが参加しました。
義親の熊狩りは、大正7(1918)年3月13日~3月29日に発刊された「小樽新聞」や、岡本一平の漫画漫文「殿様の熊狩」(初出は朝日新聞、岡本一平全集,昭和4~5(1929~1930)年刊行)、また、義親自身がその体験を執筆・出版した「熊狩の旅」などに書かれ、それらの書物から、ユーラップアイヌ、落部アイヌ、徳川家の三者のつながりを読みとることができます。 -
岡本一平 著『一平全集』
国立国会図書館デジタルコレクション
徳川義親と八雲「熊彫」の誕生
北海道土産として有名な木彫り熊は、八雲が発祥地です。
今(令和6年現在)から100年前の大正13(1924)年3月26日に北海道第一号の木彫り熊が農村美術工芸品評会で展示された日を発祥の日としています。
そもそもは、大正10(1921)年から大正11(1922)年にかけてヨーロッパを視察していた義親が、大正11年4月に立ち寄ったスイスにて木彫り熊を含んだ木彫品を見かけたとき、八雲における冬期間の副業として、また趣味としてちょうどよいと思いつき、持ち帰ったことがきっかけになります。
これら木彫品は、スイスではペザントアート(主に「農民美術」と訳されます)と呼ばれ、1800年代初頭から作られていました。
大正12(1923)年に八雲に届けられ、翌大正13(1924)年に義親発案で開催された「農村美術工芸品評会」に八雲の酪農家伊藤政雄が作成した木彫り熊が出品されました。
参考としたスイス製木彫り熊によく似た姿で、大きさも10cm程度の小さなものでした。
八雲産業株式会社管理資料
この農村美術工芸品評会の出品総点数は1,097点、八雲町内から866点、それ以外の地域からの参考出品は231点ありました。
八雲アイヌからも出品があり、義親と一緒に熊狩りを行っていたイコトルは、鮭皮製ケリ、ツマゴ、カンジキ、キナ、マキリ鞘の5点を出品しました。
また、義親は呼びかけた人がやってみせることが重要と考え、自ら彫ったイタ(お盆)を参考出品しています。3枚のうちの1枚には、アイヌ文様とアイヌ語が彫られており、それは知里幸恵の『アイヌ神謡集』で紹介されている「銀のしずく降る降るまわりに」の一節です。
こうして始まった八雲の木彫り熊は、昭和3(1928)年には義親が「熊狩の殿様」と呼ばれていたことにちなんで「熊彫」と名付けられ、北海道といえば誰もが連想する熊とアイヌ、それに尾張徳川家の三者を合わせた、もっともよく八雲を表すものとして移住者たちを中心として作られていきます。
戦前は八雲で品評会が毎年のように開催されますが、八雲のアイヌ達はイタ(お盆)等の木彫品や刺繍等を出すことはあっても、木彫り熊を彫った記録は残っていません。
そして昭和7(1932)年には「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫熊」と雑誌アサヒグラフに紹介されるほど有名になっていきます。
戦争で八雲の木彫り熊の生産量は少なくなり、戦後はごく少数の人しか彫りませんでしたが、八雲独自の彫り方が現在も継承されています。
一方、八雲以外の地域では、アイヌもまた木彫り熊の制作に取り組み、戦後になってからは「アイヌが作った鮭をくわえた木彫り熊」のイメージが北海道及び木彫り熊に定着しました。北海道に住む和人もアイヌも両方ともが取り組み、様々な技術や形を生み出してきた木彫り熊は、現在では和人とアイヌ両方の文化といえます。