辨開 凧次郎
落部(おとしべ)アイヌのリーダー
江戸時代後期に、落部に生まれました。落部アイヌのリーダーで、数多くの熊穴の占有権を有する優れた狩猟者、伯楽(馬の良否を見分ける者。馬や牛の病気を治す者)として知られました。
森村の医師 村岡格と交流があり、村岡が、アイヌ文化の調査研究と記録を目的に掲げて設立した団体であるピリカ会の活動に協力しました。
八甲田山雪中行軍遭難事件の遺体捜索に参加
明治35(1902)年の冬に青森県・八甲田山で行われた陸軍の雪中行軍における遭難事件では、長男の勇吉とともに、遺体捜索に参加し、陸軍から感謝状をもらいました。
陸軍の捜索活動報告や、当時の新聞報道では、辨開凧次郎らの捜索活動ぶりが際立っていたことを報じています。
事件の経緯
日露戦争の直前の明治35(1902)年1月に、青森県の八甲田山で、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、陸軍による雪中山岳行軍が実施されました。 参加部隊は記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し、210名中199名が凍死する大惨事がおきました。 遭難事故の救助の依頼が函館要塞司令官にあり、村岡格の仲介により、辨開凧次郎は、長男の勇吉とともに、その捜索活動に参加し、陸軍から感謝状を送られました。
■辨開凧次郎
〒049-2562 北海道二海郡八雲町落部332
落部八幡宮境内
「JR落部駅」より徒歩約7分
御所の松の碑
子熊の献上
明治33(1900)年に、皇太子殿下(のちの大正天皇)婚礼の儀に際し、落部アイヌのリーダー 辨開 凧次郎は、お祝いの意を表するため、子熊 二頭を捕らえ、雌熊をサルルン(鶴)、雄熊をイチンケ(亀)と名付けて、献上を願い出ました。
内務省を通じて、受け入れられる旨が伝達され、森村の医師 村岡格(むらおかただし)とともに、子熊を携え、上京しました。その返礼品として「御所の松」等を拝領しました。
八雲町郷土資料館所蔵
拝領した御所の松
辨開凧次郎は、拝領した御所の松を自宅近くなどに移植し、その光栄を永く子孫に伝えるために、その由緒を自然石に刻みました。
現在、辨開宅から落部八幡宮境内に移植された1本の「御所の松」と石碑は、八雲町の指定文化財(天然記念物)となっています。
御所の松の碑
石碑1 には、経緯がアイヌ語で記されていて、辨開家のシロシと、辨開の手形が彫られています。
石碑2 には、二字形のシロシと思われるものと、三つ巴の彫り物が施されています。
拓本 八雲町郷土資料館所蔵
■御所の松の碑
〒049-2562 北海道二海郡八雲町落部332
落部八幡宮境内
「JR落部駅」より徒歩約7分